視察・調査

EPOC視察(企画活動)「エネルギー利用に関連する技術調査」

概要

日 時: 2016年3月11日(金曜日)〜3月12日(土曜日)
目 的: エネルギー利用と保全管理と保全管理の高度化という視点から、小型貫流式ボイラーのシェアで国内トップを誇る三浦工業様を訪問し、最新のボイラーと排熱回収ボイラー、それらの保守管理システムを視察するとともに、松山市中央浄化センターにて四国初の取組みでもある下水処理場における消化ガス発電システムを視察。また、日本の近代産業の発展に貢献し、住友財閥の発展の礎ともなった別子銅山産業遺産も視察し、理解を深める。
視察先: 1.松山市中央浄化センター様
2.三浦工業(株) 本社工場様
3.別子銅山記念館様
4.別子銅山 産業遺跡
参加者: 16名

各施設の見学内容


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    1.松山市中央浄化センター様


    松山市中央浄化センター様は、四国で初めて建設された下水処理場で、昭和37年に運転を開始しました。敷地広さは108,000m2、1日に処理する水は晴れた日の平均で約88,000m3にもなります。また、アイデア下水道事業として、西日本最大級の約10,000m3の汚水を分離濃縮するスワール分水槽では、流入下水の持つエネルギーで円形槽内に渦流を発生させ、水中の汚濁物質が渦の中央に集まる現象で汚水を分離濃縮しています。
    未利用エネルギーの活用として、脱水汚泥は、セメント及び堆肥の原材料として、一日当たり約15トン再利用しており、汚水を浄化した処理水は、サイホン方式と呼ばれる方法で堰によって水位差を発生させ、9.9 kWのマイクロ水力発電を行っています。
    更に、中四国では初となる、下水汚泥の処理過程で発生する消化ガスを燃料として、660 kWのガスエンジン発電機で発電し、固定価格買取制度を活用して売電する事業を行っています。センター内には、消化タンク、メタン発酵層、消化ガス貯留タンク、シロキサン除去装置、消化ガス発電設備などが備わっています。
    当日は、実際に水を処理する各工程、マイクロ水力発電機、消化ガス発電システムなどを見学し、下水処理場での未利用エネルギー利用について理解を深めることができました。

    消化ガス発電システム/排水処理工程の見学

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    2.三浦工業(株) 本社工場様


    三浦工業様は、「熱・水・環境のベストパートナー」をコンセプトに、小型貫流ボイラのシェアで日本国内トップを誇るとともに、水処理機器や蒸気滅菌機器、食品加工機器などの分野でも高いシェアを有するメーカーです。
    全国約100ヶ所のメンテナンス網に1,000名以上のサービスエンジニアを配置し、本社のホストコンピュータでボイラの管理に必要な温度、流量等のデータを一括処理することで、顧客それぞれの傾向を掴み、重大事故に繋がる前の予防保全を行っています。
    また、排ガス、排温水、ボイラ水処理に関するノウハウと技術を活かし、コンプレッサーのムダを省く蒸気システムの改善や熱の利用による工場の省エネによる工場のトータルソリューション提案なども行っています。
    当日は、最新の高効率ボイラ、排ガスボイラ等のプレゼンテーションとショールームで同社製品の歴史についてお話を伺うともに、同社独自の保守の要となるオンラインセンターを見学し、保全管理の高度化に関する取り組みについて理解を深めました。

    概要説明の様子/ショールームの見学

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    3.別子銅山記念館様


    別子銅山記念館様は、別子銅山の意義を永く後世に伝えるため、住友グループ21社によって昭和50年に建設され、銅山の歴史を辿る貴重な史料約300点が展示されている施設です。開坑から閉山まで一貫して住友が経営した世界でも例のない銅山で、普通なら散逸していてもおかしくない数々の貴重な史料が現存しています。
    建物は、鉱山坑内を彷彿させる独特の半地下構造で、屋根にはサツキが1万本植、周囲に3,000本植えられ、サツキの名所として市民に親しまれています。記念館の前には、日本最初の山岳鉱山専用鉄道で、ドイツのクラウス社から購入した蒸気機関車「別子1号」が展示されています。
    館内は、住友の歴史を紹介する「泉屋歴史コーナー」、銅山の開坑から最近の関連事業まで裾野を広げた「歴史コーナー」、鉱石などを展示する「地質鉱床コーナー」、銅山で働いた人たちの生活をしのばせる「生活風俗コーナー」、西洋の技術が導入された以降の機材が並ぶ「技術コーナー」の5つのコーナーで構成されています。
    当日は、それぞれのコーナーの史料や模型を用いながら、銅製品や製法の歴史、当時の銅山周辺の状況、働く人々の暮らしの様子や苦労、煙害が発生した後の対策や技術の推移など、銅山の運営に関する内容について詳しく説明をいただき、理解を深めました。

    記念館入口/外観の様子(サツキの名所)

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    4.別子銅山 産業遺跡


    明治時代、日本は急激な近代化が進み、1691年に開坑した別子銅山も、機械設備の導入、索道・鉄道の敷設などで出鉱量の拡大が図られました。当時の銅は、貨幣の原料として経済を支え、国内年間銅産出高5,300トンのうち別子銅山で1,300トンを産出していました。
    鉱山業に直接かかわる人々約5,000人に加え、家族や商人など関係者を含め約1万人を超す人口を有する大鉱業集落を形成していましたが、1973年に閉坑しました。
    別子銅山の産業遺跡は、開坑から1930年まで採鉱本部が存在した東平地区と、移転して1973年の閉坑まで採鉱が行われた端出場地区の2種類あります。端出場地区は観光施設の機能を有する施設とともに、貯鉱庫跡や打除鉄橋、旧水力発電所跡等、当時の産業遺産が残存しています。
    当日は、当時の鉱業の技術や歴史が詰まった産業遺産を現地で確認するとともに、社運を賭けた精錬所の移転や最新技術の導入など、持続可能性を重要な課題として捉え、住友グループの環境問題に対する熱意や起業精神についても理解を深めました。

    別子銅山産業遺跡(貯蔵庫跡)/別子銅山資料館の見学


    【参考】別子銅山の環境対策を含む歴史的特徴
    精錬所から排出される亜硫酸ガスが周辺地域の農作物に被害を及ぼしたため、周辺被害軽減を考え、精錬所を四阪島と呼ばれる無人島に移転しましたが、1905年に操業を開始した四阪島の精錬所からの亜硫酸ガスは、風に乗って四国本土に流れ、煙害が拡大しました。
    1913年に住友肥料製造所を開設し、硫化鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、さらに過燐酸石灰を製造することで、1926年には硫黄量が1919年の半分まで減少させることに成功しました。
    大正末、ドイツ人ペテルゼンが発明した塔式硫酸製造方法(硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方法)を導入し、放出される亜硫酸ガスの量は更に減少し、1937年には中和工場の建設に着手。
    溶鉱炉の煙突から放出される希薄な亜硫酸ガスをアンモニア水で中和して、すべて亜硫酸アンモニアの溶液として回収するもので、1939年7月の完成以後、亜硫酸ガスはまったく見られなくなり、煙害被害の根絶を達成しました。荒れ果てた別子の山々には毎年100万〜200万本の植林が行われました。



視察を終えて

今回の視察では、熱エネルギー利用と保全管理の高度化事例、未利用エネルギーの有効活用事例とともに、鉱業の技術と歴史などについて現地で確認することができました。
エネルギーを工夫して効率よく使う事例、独自の技術を多く視察でき、非常に有意義な経験をすることができました。
最後になりますが、視察団を快く受け入れて頂いた各視察先様に、この場をお借りして御礼申し上げますとともに、引き続き、EPOCでは、循環型経済社会の構築と環境マインドの向上を目指して活動して参りますので、今後も皆様のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

EPOC会長会社事務局(東邦ガス(株) 環境部)