4.別子銅山 産業遺跡
明治時代、日本は急激な近代化が進み、1691年に開坑した別子銅山も、機械設備の導入、索道・鉄道の敷設などで出鉱量の拡大が図られました。当時の銅は、貨幣の原料として経済を支え、国内年間銅産出高5,300トンのうち別子銅山で1,300トンを産出していました。
鉱山業に直接かかわる人々約5,000人に加え、家族や商人など関係者を含め約1万人を超す人口を有する大鉱業集落を形成していましたが、1973年に閉坑しました。
別子銅山の産業遺跡は、開坑から1930年まで採鉱本部が存在した東平地区と、移転して1973年の閉坑まで採鉱が行われた端出場地区の2種類あります。端出場地区は観光施設の機能を有する施設とともに、貯鉱庫跡や打除鉄橋、旧水力発電所跡等、当時の産業遺産が残存しています。
当日は、当時の鉱業の技術や歴史が詰まった産業遺産を現地で確認するとともに、社運を賭けた精錬所の移転や最新技術の導入など、持続可能性を重要な課題として捉え、住友グループの環境問題に対する熱意や起業精神についても理解を深めました。
【参考】別子銅山の環境対策を含む歴史的特徴
精錬所から排出される亜硫酸ガスが周辺地域の農作物に被害を及ぼしたため、周辺被害軽減を考え、精錬所を四阪島と呼ばれる無人島に移転しましたが、1905年に操業を開始した四阪島の精錬所からの亜硫酸ガスは、風に乗って四国本土に流れ、煙害が拡大しました。
1913年に住友肥料製造所を開設し、硫化鉱に含まれる硫黄から硫酸を作り、さらに過燐酸石灰を製造することで、1926年には硫黄量が1919年の半分まで減少させることに成功しました。
大正末、ドイツ人ペテルゼンが発明した塔式硫酸製造方法(硝酸を使用して亜硫酸ガスを硫酸にする方法)を導入し、放出される亜硫酸ガスの量は更に減少し、1937年には中和工場の建設に着手。
溶鉱炉の煙突から放出される希薄な亜硫酸ガスをアンモニア水で中和して、すべて亜硫酸アンモニアの溶液として回収するもので、1939年7月の完成以後、亜硫酸ガスはまったく見られなくなり、煙害被害の根絶を達成しました。荒れ果てた別子の山々には毎年100万〜200万本の植林が行われました。